2012年9月12日水曜日

「桐島、部活やめるってよ」と「エレファント」と「明日、君がいない」


「戦おう、僕達はこの世界で生きていかなければならないのだから。」

「桐島、部活やめるってよ」において映画部が製作した自主映画「生徒会・オブ・ザ・デッド」に出てくるセリフだ。
”この世界”とは、見えない階層構造で分断された学校生活であり、
引いては、人間社会全体を指す。




・・・世間を賑わす「桐島、部活やめるってよ」についての議論。
事前情報では、黒澤明の「羅生門」のような展開である!との話があったけども、微妙に違う。既にかなりの人が言及している通り、どちらかと言えば「エレファント」や、「明日、君がいない」の影響を受けているのがわかる。



>「エレファント」 allcinemaの作品紹介
”1999年に起きた米コロラド州コロンバイン高校の銃乱射事件をモチーフに、「グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち」のガス・ヴァン・サント監督が、事件が勃発するまでの高校生たちの一日を淡々と描いた青春ドラマ。なお、本作は2003年カンヌ国際映画祭でパルム・ドールと監督賞のW受賞という史上初の快挙を果たした。”




>「明日、君がいない」 allcinemaの作品紹介
”10代の若者が抱える深い悩みをリアルかつ切実に描き出しカンヌで話題を集めた衝撃作。これがデビューのムラーリ・K・タルリ監督は、友人を自殺で失った半年後、自らも人生に絶望して自殺の道を選ぶが、幸いにも一命を取り留めたのをきっかけに、弱冠19歳で本作の製作に取り組み、2年の歳月をかけて完成させたという。それぞれに悩みを抱えたごく普通の6人の高校生に焦点を当て、そのうちの1人が午後2時37分に自殺するという事実を前提に、彼らの1日をそれぞれの視点から描き出していく。”




この2作、そして「桐島、部活やめるってよ」は、全てハイスクールが舞台の作品で、「同じ時間・シチュエーションを、その場にいた登場人物それぞれの視点で何度も描く」という手法を使っている。この手法の先駆者は、すでに過去にも何作かあったんじゃないかとは思うけど、(実際、ベースにある過去の映画があると監督も言っているし、パルプ・フィクションも同型。)まぁ類似点の多さからして、まず「エレファント」があり、それに追従したのが「明日、君がいない」と「桐島、部活やめるってよ」かな。いずれも、クラシック・ミュージックがスパイスになってるし。


エレファントのガス・ヴァン・サント監督のインタビューによると、「エレファント」は殆どを俳優のアドリブで演じさせ、台本からのセリフは最低限としたらしい。これによって、特定の誰かに感情移入することのない、すなわち悪役のいないストーリーの実現を試みたのだとか。かなり実験的ではあるものの、ごく平凡な日常をドキュメンタリー的な雰囲気で描くことが出来ていたと思うので、これは大成功でしょう。

で、その数年後に発表されたのが、「明日、君がいない」という作品。
この作品は、エレファントとは逆で、登場人物達へ各人の主観を植え付け、表面・内面の両側から計画的にドラマを仕立てたことで、学生の誰もが持つ「人に言えない悩み」に苦悩を際立たせ、鑑賞者達を積極的にグイグイ感情移入させる事が目的だった。
「明日、君がいない」のオチは本当に辛い。全員に感情移入してしまうから、軋轢とすれ違いばかりの学生生活、そしてその内部のヒエラルキー構造に絶望する。娯楽性とメッセージ性を両立させた傑作だと思っている。



・・・で、今回の「桐島、部活やめるってよ」は、これら2作、特に「明日、君がいない」を日本の高校の雰囲気を下地にリメイクしているような感覚に近い。日本の高校ならではの”あるあるネタ”がふんだんに盛り込まれていて、誰が見ても懐かしく、面白い(辛い?)と思える内容だ。
そしてラストでは、「エレファント」や「明日、君がいない」以上に興奮を覚えてしまう。それは、過去2作には無い”善のカタルシス”が放出されているからだ。学校内ヒエラルキー構造に対する問題提起をしつつ、それに対する解答を示している。





そのキーパーソンになっているのが、映画部部長の前田(映画ガチオタ)だ。

詳細はまた別途まとめたいけども、
原作の小説は、各章ごとに別の学生を主人公を設定するオムニバス形式をとっている。しかし監督、脚本ではそのシステムを一度破壊し、前記の通り「同じ時間・シチュエーションを、その場にいた登場人物それぞれの視点で何度も描く」形式を取った。だから「桐島」の批評において「登場人物それぞれの視点が多様で、解釈や味方も多様」なんて語られ方をしている人がちらちら見られる。

でもよく見ると、明らかに前田の存在を話の中心に置いている。それはオチからしても明らかだ。
実はこの映画の”真の視点”とは、前田のいる学校内ヒエラルキーの最下層から、上層にいるジョック共を見上げるところ・・・だと思う。

だから、この作品を愛することができるかどうかは、前田というキャラクターにどれだけ感情移入ができるか、にかかっている。すなわち、ヒエラルキーの最下層にいる人間の立場を、自分のことのように理解できるかどうか、もっと直接的に言えば、最下層を経験したオタクほど、この作品を愛することができるって事。


つづく。


0 件のコメント:

コメントを投稿