2012年9月25日火曜日

「桐島、部活やめるってよ」と、自分。


「桐島、部活やめるってよ」について、前回の続き。


ネットに溢れる「桐島」の感想を見ていると、
みんなが「これは俺の映画だ!」と、ガッツリと感情移入しながら絶賛している。
といっても、人それぞれが、
異なる登場人物に親しみを抱いているようだ。

客観的に批評するなら、
この物語の中心は宏樹だ、・・・というのが多分正解。
でも、僕らみたいなヒエラルキーの下層に立つ人間にとっては、
前田が物語の中心であってほしい、なんていう願望混じりの感想になってきてしまう。

観る人に考えさせ、それぞれの心の中に、
独自の「桐島、部活やめるってよ」という作品を生んでいるように見える。


先日、原研哉先生の談話をUSTREAMで見る機会があったんだが、
この桐島批評に通じる事を言ってた。

「良い製品とは、計算し尽くされた「空の箱」のようなもので、ユーザーそれぞれが箱に自分の要素を入れて、自分用にカスタマイズしながら利用されていくもの。例えばiPhoneがその典型。iPhoneを使い続けると、"自分"をデバイスの中に詰め込んでいくことになり、次第にデバイスが自分そのものとなってしまう。」(だいぶ記憶が曖昧だが。)

映画やアートだろうと、大量生産の工業製品だろうと、
人に認められるものとは、人に受け入れられる過程で形を変えて、
最終的に、その人の一部を形成するに至るものってことか。


そんな事を考えながら、改めて自分の過去を振り返ってみたが、
「桐島」の登場人物を使って、正確に言い表すことができると気づいた。

昔から自分は、
前田の階層に腰を落ち着け、
宏樹のように空っぽな生き方をしていたのに、
竜汰のいるヒエラルキー上位階層に憧れ、這い上がろうともがいていたなぁと。

自分の趣味に対し、前田ような情熱が持てない宏樹状態だったので、
安易ながら、綺羅びやかな竜汰の世界に憧れてしまい、
イカロスのように羽をこしらえ、羽ばたこうとした。

でも、自分の身の丈を誤り、無理に這い上がった結果、
その想像以上に眩しい世界に押し潰された。
ロウで固めた鳥の羽は、瞬く間に溶けていった。

前田の立ち位置に共感しつつも、
実は、前田・宏樹・竜汰とが形作る「三角地帯」の真ん中で、
宙に浮いた人生を送っていたことを教えてくれた「桐島」。
その解釈ができた途端、この映画は自分にとって他人事じゃなくなった。

そして、きっとどんな人にとっても、他人ごとじゃないだろう。
人それぞれ、イタイ思い出や、知られたくない過去の1つや2つ、
必ず有るもの。
桐島は、その思い出を、多様な登場人物を通じて、
巧みに見つめ直させてくれる、
本当に素敵な映画だ。

そう、「桐島」の登場人物は、
みんなが自分の中にひっそりと隠し持つトラウマの幻影なんだよ!!

ΩΩΩ_Ω<な、なんだってー!?



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