2012年10月16日火曜日
アウトレイジ・ビヨンド 〜人付き合いのバランス〜
アウトレイジ・ビヨンド、とても面白かった!
世間では、「前作より格段に良くなった!」という論調が目立つ。
確かに、1作目より「ビヨンド」の方がストーリー展開が良かったかな。
でも個人的には、1作目も「ビヨンド」も両方同じく面白い。
だって、アウトレイジの楽しみ方は、ドラマ性や暴言合戦だけじゃないから。
アウトレイジのウリと云えば、
バカヤロー・コノヤローの連呼連発、そして血みどろのエグい残虐描写でしょう。
ライトな映画ファンがアウトレイジを毛嫌いするのは、
この辺りの表層部分が受け入れられないからだ。
確かに、彼らは異常な世界を生きている。
でもだからといって、彼らの「思考回路」が異常かというと、そうではない。
暴力描写を抜きにして、単純にドラマツルギーだけ追っていくと分かる。
彼ら登場人物は、ヤクザの世界の法則・価値観・人間関係を、
極めて論理的に、理性的に、ビジネスライクに処理してる。
”ここまでやったら、こっちは何をする。”
”こっちは何をするから、相手はどこまでどうする。”
”ここまで来たあたりで、相手の裏をかく”
これら組同士の争いは、国家間の外交や、企業競走を思わせる。
そして、ちょっとでも欲を見せようものなら、瞬く間に殺されるあたりは、
相手への誠意がいかに大事かを改めて感じる。木村だって、欲を見せたんだし。
この微妙な因果応報的な「バランス感覚」が、
狂気の罵声の中に心地よさを与えてくれるんだ。
彼らは決して異常者でもサイコパスでもない。
僕らと少しだけ世界観が違うところで生きている”常識人”なんだ。
いやいや、それどころか・・・
常に覚悟を決め、
日常的に死を想い、
責任を感じ、
ここぞという時に勝負をし、
自らの過ちには潔くケツをまくれる人達が、いかに清々しいかが見て取れる。
逆に、素晴らしい人達だよ。
組同士で騙し騙される展開が怖い?なるほど、そりゃそうだろう。
でも、それは僕らの日常も同じじゃないか。
ウワサ話が好きな近所のおばちゃんが、
見えない所で僕らの陰口をたたいているかもしれないだろう?
会社で、
自分にどのようなレッテルが貼られているかなんて、わからないだろう?
人間みんな、裏じゃ何を言われているか分かったもんじゃないよ。
アウトレイジは、鑑賞者それぞれの「恐怖の日常」のメタファーを含んでいて、
その中で我々が、どのようなスタンスで向きあえばいいのか考えさせられる作品だよ。
(ちょっと救いが無さすぎかもしれんが。)
勿論、脚本を北野監督が書いているからそうなるだけであって、
本物のヤクザの実体なのかは別の話かな・・・。
まぁこんなところだけど、
加えて言うなら、キャラクター性も魅力的。
全員悪人のアウトレイジだが、それぞれの俳優が、
各人の個性をうまく生かした悪人演技をしているように見えて、とても良い。
1作目で言えば、椎名桔平、北村総一朗、
「ビヨンド」なら、花菱側を演じる西田敏行と塩見三省がお気に入り。
両作通じて言うなら、加瀬亮や小日向文世も、自身のキャラとイメージがマッチする。
とくに「ビヨンド」での花菱の2人は強烈に怖い。
塩見演じる中田は、見た目からして完全に本職でしょう。
一方、西田演じる若頭・西野は、
体をユラ〜リと揺らし、首と肩がダルそうに傾いているところが秀逸。
不気味さを感じて寒気がした!
彼らのキャラ性と、丁々発止の暴言連発。
かっこ良すぎるね。
予告編やポスターが、まるでヒーロー映画のように本当に素敵だ!
こんなに良いキャラを作っているのに、
ストーリーが進むに連れて、
主役級の名優達がゴロゴロ死んでいくのは圧巻。(前作も同じか・・・)
でも、もし次回作があるのなら、また新しいきゃストを加えればいいだけの話か。
アウトレイジシリーズは、日本映画におけるエクスペンダブルズなのかもしれない。
名優を消耗品軍団に変える映画ってな。
2012年10月1日月曜日
ボーン・レガシー 〜この世は全て相対評価〜
<ネタバレあり>
ボーン・レガシーは、つまらないわけじゃない。
一応、おもしろい。
でも、ボーン・アイデンティティーと同程度。まぁまぁな作品。
ボーン・アイデンティティーは、
マット・デイモン/ジェイソン・ボーンの1作目。
今回も、ジェレミー・レナー/アーロン・クロスに主役が入れ替わって1作目だ。
本作がまぁまぁでも、前と同じ状況じゃないか。
・・・とは、いかないだろうな。
多分、めちゃめちゃ批判されると思う。
本作が「マズい」のは、
シリーズ1作目の”アイデンティティー”以後に続いた、
”スプレマシー”、”アルティメイタム”といった傑作アクションを踏まえた上での、新たなるスタート!!
・・・という位置づけだった点だ。
”アイデンティティー”とは置かれた状況が違っていて、かなり分が悪いよ。
批判に耐えてくれよ?ジェレミー・レナー!!
この”レガシー”。何が悪いって、シリーズの大黒柱たる脚本が悪い。
ボーン・シリーズとしては致命的。
”スプレマシー”以後極まってた「論理・必然・現実感」の神シナリオが、
明らかに劣化してる。
前三部作は、ジェイソン・ボーンの完璧な判断力と戦闘力が魅力だった。
しかし今回、
アーロン・クロスの判断力や戦闘力が完璧なのかどうか、よくわからない。
動機やシチュエーションの描き方が雑で、
観客が状況を掴み切れない状態のまま話を進めてしまうから、
アーロンがどれだけ凄い判断力と戦闘力を見せつけても全然伝わらないんだ。
例えば、
アーロン・クロスの行動動機である薬のくだりとか明らかに説明不足・伏線不足だし、
リック・バイヤー(エドワード・ノートン)の設定や位置づけがピンとこないし、
研究所で暴れた所員の説明が雑すぎるし、
アーロンを追う敵工作員が、全然怖くない。つうか、白い歯見せながら怒って追跡する姿が人間兵器に見えずショボイ。「ボクチャンもう怒ったぞゾ!」って言ってる気がするんだもの。スゲー小物っぽい。
etc....
こういう細かいツッコミどころは、どんな良作にも1つ2つはあるものだけど、
多くなればなるほど、観客はついていけなくなり、
ストーリーが観客を置き去りにしてしまう。
だから無視はできない。
監督のトニー・ギルロイって
”スプレマシー”や”アルティメイタム”で脚本やったはずだが。
監督業やって、ヘンな折り合いつけちゃったのかな?
やっぱりポール・グリーングラスの帰還を願うしかないか。(・・・無理だろうな)
つまり、
ボーン・レガシー凡作になってしまったのは、裏方の責任だ。
しかも、前三部作との比較の結果、相対評価としての凡作。
だから・・・俳優陣は悪くない!
ジェレミー・レナー自身はしっかりやっててカッコ良かったと思うし、
レイチェル・ワイズも、さすがオスカー女優だと思った。
まぁ、レイチェル・ワイズ/シェアリング博士のパニック演技は正直ウザイけど、
あれも脚本のせいだ。
彼女の心の傷を大して描いていないクセに、パニックシーンだけ妙に長くて、
クドイんだ。
あー、この感じ、ダークナイト・ライジングと同じだ。
このやるせない感の矛先を何処へ向ければ・・・?
2012年9月29日土曜日
踊る大捜査線 THE FINAL
救いようがない。
ただこの一言に尽きる映画だった。
いや、こんなの映画じゃないよぅ!
話に付いて行くのがやっと、という難解なストーリーなんだが、
難解さの理由をよく考えると、自分の理解度ではなく、理解不能な脚本が問題なんだよね。
うん。
ただこの一言に尽きる映画だった。
いや、こんなの映画じゃないよぅ!
話に付いて行くのがやっと、という難解なストーリーなんだが、
難解さの理由をよく考えると、自分の理解度ではなく、理解不能な脚本が問題なんだよね。
うん。
2012年9月25日火曜日
「桐島、部活やめるってよ」と、自分。
「桐島、部活やめるってよ」について、前回の続き。
ネットに溢れる「桐島」の感想を見ていると、
みんなが「これは俺の映画だ!」と、ガッツリと感情移入しながら絶賛している。
といっても、人それぞれが、
異なる登場人物に親しみを抱いているようだ。
客観的に批評するなら、
この物語の中心は宏樹だ、・・・というのが多分正解。
でも、僕らみたいなヒエラルキーの下層に立つ人間にとっては、
前田が物語の中心であってほしい、なんていう願望混じりの感想になってきてしまう。
観る人に考えさせ、それぞれの心の中に、
独自の「桐島、部活やめるってよ」という作品を生んでいるように見える。
先日、原研哉先生の談話をUSTREAMで見る機会があったんだが、
この桐島批評に通じる事を言ってた。
「良い製品とは、計算し尽くされた「空の箱」のようなもので、ユーザーそれぞれが箱に自分の要素を入れて、自分用にカスタマイズしながら利用されていくもの。例えばiPhoneがその典型。iPhoneを使い続けると、"自分"をデバイスの中に詰め込んでいくことになり、次第にデバイスが自分そのものとなってしまう。」(だいぶ記憶が曖昧だが。)
映画やアートだろうと、大量生産の工業製品だろうと、
人に認められるものとは、人に受け入れられる過程で形を変えて、
最終的に、その人の一部を形成するに至るものってことか。
そんな事を考えながら、改めて自分の過去を振り返ってみたが、
「桐島」の登場人物を使って、正確に言い表すことができると気づいた。
昔から自分は、
前田の階層に腰を落ち着け、
宏樹のように空っぽな生き方をしていたのに、
竜汰のいるヒエラルキー上位階層に憧れ、這い上がろうともがいていたなぁと。
自分の趣味に対し、前田ような情熱が持てない宏樹状態だったので、
安易ながら、綺羅びやかな竜汰の世界に憧れてしまい、
イカロスのように羽をこしらえ、羽ばたこうとした。
でも、自分の身の丈を誤り、無理に這い上がった結果、
その想像以上に眩しい世界に押し潰された。
ロウで固めた鳥の羽は、瞬く間に溶けていった。
前田の立ち位置に共感しつつも、
実は、前田・宏樹・竜汰とが形作る「三角地帯」の真ん中で、
宙に浮いた人生を送っていたことを教えてくれた「桐島」。
その解釈ができた途端、この映画は自分にとって他人事じゃなくなった。
そして、きっとどんな人にとっても、他人ごとじゃないだろう。
人それぞれ、イタイ思い出や、知られたくない過去の1つや2つ、
必ず有るもの。
桐島は、その思い出を、多様な登場人物を通じて、
巧みに見つめ直させてくれる、
本当に素敵な映画だ。
そう、「桐島」の登場人物は、
みんなが自分の中にひっそりと隠し持つトラウマの幻影なんだよ!!
ΩΩΩ_Ω<な、なんだってー!?
2012年9月12日水曜日
「桐島、部活やめるってよ」と「エレファント」と「明日、君がいない」
「戦おう、僕達はこの世界で生きていかなければならないのだから。」
「桐島、部活やめるってよ」において映画部が製作した自主映画「生徒会・オブ・ザ・デッド」に出てくるセリフだ。
”この世界”とは、見えない階層構造で分断された学校生活であり、
引いては、人間社会全体を指す。
・・・世間を賑わす「桐島、部活やめるってよ」についての議論。
事前情報では、黒澤明の「羅生門」のような展開である!との話があったけども、微妙に違う。既にかなりの人が言及している通り、どちらかと言えば「エレファント」や、「明日、君がいない」の影響を受けているのがわかる。
>「エレファント」 allcinemaの作品紹介
”1999年に起きた米コロラド州コロンバイン高校の銃乱射事件をモチーフに、「グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち」のガス・ヴァン・サント監督が、事件が勃発するまでの高校生たちの一日を淡々と描いた青春ドラマ。なお、本作は2003年カンヌ国際映画祭でパルム・ドールと監督賞のW受賞という史上初の快挙を果たした。”
>「明日、君がいない」 allcinemaの作品紹介
”10代の若者が抱える深い悩みをリアルかつ切実に描き出しカンヌで話題を集めた衝撃作。これがデビューのムラーリ・K・タルリ監督は、友人を自殺で失った半年後、自らも人生に絶望して自殺の道を選ぶが、幸いにも一命を取り留めたのをきっかけに、弱冠19歳で本作の製作に取り組み、2年の歳月をかけて完成させたという。それぞれに悩みを抱えたごく普通の6人の高校生に焦点を当て、そのうちの1人が午後2時37分に自殺するという事実を前提に、彼らの1日をそれぞれの視点から描き出していく。”
この2作、そして「桐島、部活やめるってよ」は、全てハイスクールが舞台の作品で、「同じ時間・シチュエーションを、その場にいた登場人物それぞれの視点で何度も描く」という手法を使っている。この手法の先駆者は、すでに過去にも何作かあったんじゃないかとは思うけど、(実際、ベースにある過去の映画があると監督も言っているし、パルプ・フィクションも同型。)まぁ類似点の多さからして、まず「エレファント」があり、それに追従したのが「明日、君がいない」と「桐島、部活やめるってよ」かな。いずれも、クラシック・ミュージックがスパイスになってるし。
エレファントのガス・ヴァン・サント監督のインタビューによると、「エレファント」は殆どを俳優のアドリブで演じさせ、台本からのセリフは最低限としたらしい。これによって、特定の誰かに感情移入することのない、すなわち悪役のいないストーリーの実現を試みたのだとか。かなり実験的ではあるものの、ごく平凡な日常をドキュメンタリー的な雰囲気で描くことが出来ていたと思うので、これは大成功でしょう。
で、その数年後に発表されたのが、「明日、君がいない」という作品。
この作品は、エレファントとは逆で、登場人物達へ各人の主観を植え付け、表面・内面の両側から計画的にドラマを仕立てたことで、学生の誰もが持つ「人に言えない悩み」に苦悩を際立たせ、鑑賞者達を積極的にグイグイ感情移入させる事が目的だった。
「明日、君がいない」のオチは本当に辛い。全員に感情移入してしまうから、軋轢とすれ違いばかりの学生生活、そしてその内部のヒエラルキー構造に絶望する。娯楽性とメッセージ性を両立させた傑作だと思っている。
・・・で、今回の「桐島、部活やめるってよ」は、これら2作、特に「明日、君がいない」を日本の高校の雰囲気を下地にリメイクしているような感覚に近い。日本の高校ならではの”あるあるネタ”がふんだんに盛り込まれていて、誰が見ても懐かしく、面白い(辛い?)と思える内容だ。
そしてラストでは、「エレファント」や「明日、君がいない」以上に興奮を覚えてしまう。それは、過去2作には無い”善のカタルシス”が放出されているからだ。学校内ヒエラルキー構造に対する問題提起をしつつ、それに対する解答を示している。
そのキーパーソンになっているのが、映画部部長の前田(映画ガチオタ)だ。
詳細はまた別途まとめたいけども、
原作の小説は、各章ごとに別の学生を主人公を設定するオムニバス形式をとっている。しかし監督、脚本ではそのシステムを一度破壊し、前記の通り「同じ時間・シチュエーションを、その場にいた登場人物それぞれの視点で何度も描く」形式を取った。だから「桐島」の批評において「登場人物それぞれの視点が多様で、解釈や味方も多様」なんて語られ方をしている人がちらちら見られる。
でもよく見ると、明らかに前田の存在を話の中心に置いている。それはオチからしても明らかだ。
実はこの映画の”真の視点”とは、前田のいる学校内ヒエラルキーの最下層から、上層にいるジョック共を見上げるところ・・・だと思う。
だから、この作品を愛することができるかどうかは、前田というキャラクターにどれだけ感情移入ができるか、にかかっている。すなわち、ヒエラルキーの最下層にいる人間の立場を、自分のことのように理解できるかどうか、もっと直接的に言えば、最下層を経験したオタクほど、この作品を愛することができるって事。
つづく。
2012年9月5日水曜日
実写版「るろうに剣心」に見る”左之助不要論”
誰もが期待していなかった、実写版るろうに剣心。予想外の面白さに歓喜した人が多いようで、原作ファンとしては嬉しいラプライズだったよ。全てが完璧の大傑作とは言わないにしても、十分楽しめる出来栄えなので、まだ見ていない人がいたら、是非オススメしたい。
この作品を観て、原作に対する新たな知見を得たと感じた部分がある。それが主題に書いた「左之助不要論」
映画を観て「左之助の役どころが中途半端でよく分からない」という不満を感じたんだよね。つまり、剣心と一緒に戦っているという事のみしかストーリー上のカラミが描かれないので、お話の異物・脇役のように見えるってこと。
相楽左之助といえば、小学生の誰しもがマネした憧れの技「フタエノキワミ、アッー」の使い手。ファンも多いし、幕末の志士達と互角に戦う姿がとてもカッコイイ。そんな左之助をイラナイ子みたいに扱うなんて、実写版のシナリオはヒドイ!・・・と言いたくなるけど、じゃあ原作で彼は本当に必要な子だったか・・・?
原作るろうに剣心の根底に流れるテーマは、多分こんなイメージだと思う。
第一部 鵜堂刃衛、武田観柳&御庭番衆、雷十太 >正義に生きる元人斬りの活劇。
第二部 志々雄真実 >人を守る新たな人生への目覚め、生への渇望。
第三部 雪代縁 >人斬りとしての人生の贖罪と決別。
左之助は、赤報隊の悲劇を通して幕末・明治の混乱を訴えた、メッセージ性の強いキャラではある。でもそれが描かれて以降、彼は単なる戦力ぐらいにしかなってないんじゃないの?
神谷薫は、剣心の今を支える重要な役。明神弥彦は、明治という新たな時代を誇り高く生き抜こうとする次世代への希望を体現する役。高荷恵は、薫の葛藤を支え、励ます役。斎藤一は、単にライバルというだけでなく、幕末の混乱期の哲学を持ち、剣心の過去の足かせとなる象徴的な役。
さ、左之助は・・・?
赤報隊の話は、第一部に描かれる単発エピソードとして価値を持つけど、その後の展開にワザワザ脚を突っ込まなくても・・・いや、脚を突っ込まない方がいいんだよね。
バカなことを言うな・・・って? いやいや、それを四乃森蒼紫が証明しているんだよ。実写版では、原作の単発エピソードで描かれていた四乃森蒼紫の存在がゴッソリ削ぎ落とされてたことによって、シナリオの発散が最小限に抑えられたんだよ。おかげで、鵜堂刃衛のクライマックスを通じて、「人斬りの過去と不殺(殺さず)を誓った現在との葛藤」という一貫したテーマを、ブレずに根底に据えることができた。四乃森蒼紫は不殺と関係無いからね。・・・そしてそれは、同じく単発エピソード向けのキャラである左之助も同じなんだ、ホントに。
こう考えると、左之助が映画の中で浮いてしまう原因は、映画ではなく、そもそも原作側にあると思うわけ。この点はを映画で整合をとらせるな、左之助の存在をばっさりカットするのが一番手っ取り早いはずだけど、キャラはカッコイイし、ファンも多いからね、消す選択肢は無かっただろうね。
せっかくなので、次回作で、「フタエノキワミ、アッー」の実写化に取り組んでもらいたい。青木崇高自身はハマッてたしね。
そんな感想だった。
2012年8月13日月曜日
ダークナイト・ライジングを絶対に認めたくない理由
※ ネタバレ注意
2012年度のウルトラメガトン級超絶期待作として鑑賞した映画「ダークナイト・ライジング」。クリストファー・ノーラン監督が手がけるバットマン映画の3作目にして完結編。前作ダークナイトの衝撃から4年。僕が長年貯め続けた本作への熱意は、結局・・・大きく裏切られてしまったと言わざるをえない。
各所で囁かれているように、本作は脚本上、物語構成上の技術的不具合が数えきれない程に存在する。見ていて本当に辛かった。
(”奈落”を脱出したブルース・ウェインはどうやって孤立したゴッサムに入ったのか問題、ベインの市民革命モドキは何の意味があったのか問題、前作でブルース・ウェインは市民による自警行為を批判していたのに本作ではマスクを被ればみんなバットマンになれるなんて事を言って奨励してた問題など)
・・・ただ、何と言っても一番「勘弁してくれホント・・・。」って感じたのは、前作ダークナイトで描かれた平和に対する考え方や価値観とは真逆の結末を描いている事だ。
ダークナイトで多くの人に衝撃を与えた事というのは、カオスの使者を自称するジョーカーの揺さぶりにより明らかになった「理性や倫理の薄っぺらさ」だと思う。言い換えるならは、バットマンやゴッサム住民の内に秘める、汚い欲望を、心の表面に炙り出し、「自分若しくは自分の大切なものを維持・保持するためには、他人の不幸など知ったことではない」という考え方を白昼に晒したんだ。
例えば・・・
>ジョーカーによる、「バットマンは名乗り出ろ、さもなくばゴッサムの住民を毎日殺していくぞ!」という脅迫に対し、ゴッサムの世論は一気にバットマンをスケープゴートにする方向へ動いた。
>ジョーカーはバットマンを罠にはめ、「デントとレイチェルどちらかは助かるがどちらかは死ぬ」・・・と選択を迫った。バットマンはここでレイチェルを迷わず選択し、ジョーカーに指示された監禁場所へ向かったが、実は指示した場所はデントの監禁場所で、レイチェルは救出されずに死亡した。つまり、どちらを選択しても、欲しい方は手に入らない状況として、選択=私欲への罰を与えられてしまった。
>バットマンとの戦いに楽しみを見出すジョーカーは、TVで「バットマンの正体に感づいた男リースを殺せ、さもなくば市内の病院を爆破する。」と呼びかけ、病院患者の身内の人間達が一斉にリースを殺しにかかってきた。
>2隻のフェリーに、それぞれ一般市民と犯罪者が輸送され、フェリーを航行不能とし、互いを爆破することができる起爆スイッチを持たせ、「12時までにスイッチを押さなければ両方爆破する。相手を爆破すれば助けてやる。」と言い、「自分だけは助かりたい!」という人間の本性を暴こうとした。※これは失敗
>そして特に重要なのは、デントの末路だ。地方検事ハービー・デントはジョーカーの策略により、光の騎士とまで称された正義の心を悪用され、心に潜む闇の部分を引きずり出されてしまい、コインの表と裏で人の生死をジャッジするトゥー・フェイスと成り果てた。
・・・などなど。人の心はエグいことこの上ない。
このジョーカーの行動により、平和で秩序だった世界というのは、実はちょっとした揺さぶりによって簡単に崩れ去っていくものだという事が証明されてしまった。そしてジョーカーは、そのカオスにこそ人の本質があるかのように振舞った。
しかしそれでは、平和に過ごせる未来は一生やってこない。平和がどんなに薄っぺらい建前上の倫理だとしても、かと言ってカオスを認めると、人の不幸につながるし、何より悪人が報われる世界を肯定することになってしまう。
ここでバットマンは、デントが犯したすべての殺人の罪を自分が被り、デントを通じて人々が平和を望んだ思いが報われたように見せかけることを選んだ。でもこれは、事実ではなく嘘だ。他人を騙す悪の発想だ。すなわち、悪の力から平和を守ったのは、やはり悪なのだ。バットマンの自警行為に対する考え方・価値観とは、「日の当たらない闇の中で、非人道的手段であれ悪は排除しなければならない、そしてそれによって、たとえ薄っぺらくとも人々が安心して暮らせる平和を維持しなければならない」という事にあった。正義と悪を明確に区切ることなんて実は出来ない。結局のところ、どちらも変わらないのではないか。ダークナイトは、そんな問題提起をしてきたんだ。
「彼はヒーローではない、沈黙の守護者、我々を見守る番人、闇の騎士<ダークナイト>だ」
ゴードンのこの名台詞こそ、なぜダークナイトが多くの人の心を掴んだかを教えてくれるセリフだ。
そ れ な の に・・・だ!!
このダークナイト・ライジングでバットマンは、文字通りRiseして、「光の騎士」になった。具体的には、デントの悪行をベインがばらしてしまったことで、逆に「バットマンこそ市民を守ったヒーローだった!」という認識が浸透し、汚名返上したのだ。映画のラストには、バットマンを記念した銅像すらも立てられる。
これは言い換えるなら、前作ダークナイトのラスト時点でのバットマンとデント立ち位置が入れ替わり、バットマンが「正真正銘のヒーロー<光の騎士>」になったってことだ。主人公の努力がみんなに認められてよかった!!・・・というラストではある。絵に描いたようなハッピーエンドだ。
それを裏付けるかのように、バットマン役を演じた俳優クリスチャン・ベイルのインタビューでは、以下のように解説されている。
”今回の彼もやはり肉体的、精神的に傷を負っている状態。前作で自らが選んだ決断のせいで苦しんでいるんだ。ゴッサムシティの希望のために選んだ道として短い間は問題なかったが、真実はやがて白日の下にさらされる。ブルースにとっては人生で最も厳しい時を迎えることになるんだ。自責の念に押し潰されるんだよ。そして、バットマンは姿を消してしまうのさ。” −MOVIE ENTERより抜粋−
つまり、ダークナイトでの判断は一時しのぎであり、長い目で見れば間違った状態であったってことだ。俳優は、演じる際に必ず監督から演じる役についての説明を受けているはずなので、ここで語られていることは、恐らく監督クリストファー・ノーランの考えにも繋がると考えていいだろう。
・・・でもね、本作のタイトルは「ダークナイト・ライジング」だよ!?
前作で「俺はヒーローじゃない」。「彼はヒーローじゃない」。・・・と散々セリフで言いまくって「ダークナイト」としての特殊な存在価値を大きく担ぎあげたクセに、本作になって「それは偽りで一時的なものでしかなく、あるべき姿じゃない・・・」なんて事言われても困るんだよ。だって僕は、ダークナイト・ライジングで否定している闇の騎士としての哲学・存在価値に心を震わせたから、ノーラン版バットマンを愛するようなったんだよ。逆に、ライジングの結末は、ダークナイトでジョーカーが否定していたことじゃないか。
なのに、悪は悪でやっぱりダメってところに落ち着くって・・・
前作で支持された思想を完全に否定してるって事じゃん!!
だから僕は、たとえ脚本の技術的欠陥ない状態でライジングが完成していたとしても、好きにはなれなかったと思う。(まぁこれは個人的な思想の話なので、好みは分かれるだろうけども・・・。)
こうして、ダークナイト鑑賞後から4年間思い続けたノーラン版バットマンへの信仰は、終わりを告げたわけだ。とはいえ、これからも前作ダークナイトのファンであり続けたいと思う。シカゴの地下を疾走するバットポッドに震えたあのときの興奮は、今でも忘れられないもの。
2012年度のウルトラメガトン級超絶期待作として鑑賞した映画「ダークナイト・ライジング」。クリストファー・ノーラン監督が手がけるバットマン映画の3作目にして完結編。前作ダークナイトの衝撃から4年。僕が長年貯め続けた本作への熱意は、結局・・・大きく裏切られてしまったと言わざるをえない。
各所で囁かれているように、本作は脚本上、物語構成上の技術的不具合が数えきれない程に存在する。見ていて本当に辛かった。
(”奈落”を脱出したブルース・ウェインはどうやって孤立したゴッサムに入ったのか問題、ベインの市民革命モドキは何の意味があったのか問題、前作でブルース・ウェインは市民による自警行為を批判していたのに本作ではマスクを被ればみんなバットマンになれるなんて事を言って奨励してた問題など)
・・・ただ、何と言っても一番「勘弁してくれホント・・・。」って感じたのは、前作ダークナイトで描かれた平和に対する考え方や価値観とは真逆の結末を描いている事だ。
ダークナイトで多くの人に衝撃を与えた事というのは、カオスの使者を自称するジョーカーの揺さぶりにより明らかになった「理性や倫理の薄っぺらさ」だと思う。言い換えるならは、バットマンやゴッサム住民の内に秘める、汚い欲望を、心の表面に炙り出し、「自分若しくは自分の大切なものを維持・保持するためには、他人の不幸など知ったことではない」という考え方を白昼に晒したんだ。
例えば・・・
>ジョーカーによる、「バットマンは名乗り出ろ、さもなくばゴッサムの住民を毎日殺していくぞ!」という脅迫に対し、ゴッサムの世論は一気にバットマンをスケープゴートにする方向へ動いた。
>ジョーカーはバットマンを罠にはめ、「デントとレイチェルどちらかは助かるがどちらかは死ぬ」・・・と選択を迫った。バットマンはここでレイチェルを迷わず選択し、ジョーカーに指示された監禁場所へ向かったが、実は指示した場所はデントの監禁場所で、レイチェルは救出されずに死亡した。つまり、どちらを選択しても、欲しい方は手に入らない状況として、選択=私欲への罰を与えられてしまった。
>バットマンとの戦いに楽しみを見出すジョーカーは、TVで「バットマンの正体に感づいた男リースを殺せ、さもなくば市内の病院を爆破する。」と呼びかけ、病院患者の身内の人間達が一斉にリースを殺しにかかってきた。
>2隻のフェリーに、それぞれ一般市民と犯罪者が輸送され、フェリーを航行不能とし、互いを爆破することができる起爆スイッチを持たせ、「12時までにスイッチを押さなければ両方爆破する。相手を爆破すれば助けてやる。」と言い、「自分だけは助かりたい!」という人間の本性を暴こうとした。※これは失敗
>そして特に重要なのは、デントの末路だ。地方検事ハービー・デントはジョーカーの策略により、光の騎士とまで称された正義の心を悪用され、心に潜む闇の部分を引きずり出されてしまい、コインの表と裏で人の生死をジャッジするトゥー・フェイスと成り果てた。
・・・などなど。人の心はエグいことこの上ない。
このジョーカーの行動により、平和で秩序だった世界というのは、実はちょっとした揺さぶりによって簡単に崩れ去っていくものだという事が証明されてしまった。そしてジョーカーは、そのカオスにこそ人の本質があるかのように振舞った。
しかしそれでは、平和に過ごせる未来は一生やってこない。平和がどんなに薄っぺらい建前上の倫理だとしても、かと言ってカオスを認めると、人の不幸につながるし、何より悪人が報われる世界を肯定することになってしまう。
ここでバットマンは、デントが犯したすべての殺人の罪を自分が被り、デントを通じて人々が平和を望んだ思いが報われたように見せかけることを選んだ。でもこれは、事実ではなく嘘だ。他人を騙す悪の発想だ。すなわち、悪の力から平和を守ったのは、やはり悪なのだ。バットマンの自警行為に対する考え方・価値観とは、「日の当たらない闇の中で、非人道的手段であれ悪は排除しなければならない、そしてそれによって、たとえ薄っぺらくとも人々が安心して暮らせる平和を維持しなければならない」という事にあった。正義と悪を明確に区切ることなんて実は出来ない。結局のところ、どちらも変わらないのではないか。ダークナイトは、そんな問題提起をしてきたんだ。
「彼はヒーローではない、沈黙の守護者、我々を見守る番人、闇の騎士<ダークナイト>だ」
ゴードンのこの名台詞こそ、なぜダークナイトが多くの人の心を掴んだかを教えてくれるセリフだ。
そ れ な の に・・・だ!!
このダークナイト・ライジングでバットマンは、文字通りRiseして、「光の騎士」になった。具体的には、デントの悪行をベインがばらしてしまったことで、逆に「バットマンこそ市民を守ったヒーローだった!」という認識が浸透し、汚名返上したのだ。映画のラストには、バットマンを記念した銅像すらも立てられる。
これは言い換えるなら、前作ダークナイトのラスト時点でのバットマンとデント立ち位置が入れ替わり、バットマンが「正真正銘のヒーロー<光の騎士>」になったってことだ。主人公の努力がみんなに認められてよかった!!・・・というラストではある。絵に描いたようなハッピーエンドだ。
それを裏付けるかのように、バットマン役を演じた俳優クリスチャン・ベイルのインタビューでは、以下のように解説されている。
”今回の彼もやはり肉体的、精神的に傷を負っている状態。前作で自らが選んだ決断のせいで苦しんでいるんだ。ゴッサムシティの希望のために選んだ道として短い間は問題なかったが、真実はやがて白日の下にさらされる。ブルースにとっては人生で最も厳しい時を迎えることになるんだ。自責の念に押し潰されるんだよ。そして、バットマンは姿を消してしまうのさ。” −MOVIE ENTERより抜粋−
つまり、ダークナイトでの判断は一時しのぎであり、長い目で見れば間違った状態であったってことだ。俳優は、演じる際に必ず監督から演じる役についての説明を受けているはずなので、ここで語られていることは、恐らく監督クリストファー・ノーランの考えにも繋がると考えていいだろう。
・・・でもね、本作のタイトルは「ダークナイト・ライジング」だよ!?
前作で「俺はヒーローじゃない」。「彼はヒーローじゃない」。・・・と散々セリフで言いまくって「ダークナイト」としての特殊な存在価値を大きく担ぎあげたクセに、本作になって「それは偽りで一時的なものでしかなく、あるべき姿じゃない・・・」なんて事言われても困るんだよ。だって僕は、ダークナイト・ライジングで否定している闇の騎士としての哲学・存在価値に心を震わせたから、ノーラン版バットマンを愛するようなったんだよ。逆に、ライジングの結末は、ダークナイトでジョーカーが否定していたことじゃないか。
なのに、悪は悪でやっぱりダメってところに落ち着くって・・・
前作で支持された思想を完全に否定してるって事じゃん!!
だから僕は、たとえ脚本の技術的欠陥ない状態でライジングが完成していたとしても、好きにはなれなかったと思う。(まぁこれは個人的な思想の話なので、好みは分かれるだろうけども・・・。)
こうして、ダークナイト鑑賞後から4年間思い続けたノーラン版バットマンへの信仰は、終わりを告げたわけだ。とはいえ、これからも前作ダークナイトのファンであり続けたいと思う。シカゴの地下を疾走するバットポッドに震えたあのときの興奮は、今でも忘れられないもの。
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