2012年9月29日土曜日

踊る大捜査線 THE FINAL

救いようがない。

ただこの一言に尽きる映画だった。

いや、こんなの映画じゃないよぅ!

話に付いて行くのがやっと、という難解なストーリーなんだが、

難解さの理由をよく考えると、自分の理解度ではなく、理解不能な脚本が問題なんだよね。

うん。


2012年9月25日火曜日

「桐島、部活やめるってよ」と、自分。


「桐島、部活やめるってよ」について、前回の続き。


ネットに溢れる「桐島」の感想を見ていると、
みんなが「これは俺の映画だ!」と、ガッツリと感情移入しながら絶賛している。
といっても、人それぞれが、
異なる登場人物に親しみを抱いているようだ。

客観的に批評するなら、
この物語の中心は宏樹だ、・・・というのが多分正解。
でも、僕らみたいなヒエラルキーの下層に立つ人間にとっては、
前田が物語の中心であってほしい、なんていう願望混じりの感想になってきてしまう。

観る人に考えさせ、それぞれの心の中に、
独自の「桐島、部活やめるってよ」という作品を生んでいるように見える。


先日、原研哉先生の談話をUSTREAMで見る機会があったんだが、
この桐島批評に通じる事を言ってた。

「良い製品とは、計算し尽くされた「空の箱」のようなもので、ユーザーそれぞれが箱に自分の要素を入れて、自分用にカスタマイズしながら利用されていくもの。例えばiPhoneがその典型。iPhoneを使い続けると、"自分"をデバイスの中に詰め込んでいくことになり、次第にデバイスが自分そのものとなってしまう。」(だいぶ記憶が曖昧だが。)

映画やアートだろうと、大量生産の工業製品だろうと、
人に認められるものとは、人に受け入れられる過程で形を変えて、
最終的に、その人の一部を形成するに至るものってことか。


そんな事を考えながら、改めて自分の過去を振り返ってみたが、
「桐島」の登場人物を使って、正確に言い表すことができると気づいた。

昔から自分は、
前田の階層に腰を落ち着け、
宏樹のように空っぽな生き方をしていたのに、
竜汰のいるヒエラルキー上位階層に憧れ、這い上がろうともがいていたなぁと。

自分の趣味に対し、前田ような情熱が持てない宏樹状態だったので、
安易ながら、綺羅びやかな竜汰の世界に憧れてしまい、
イカロスのように羽をこしらえ、羽ばたこうとした。

でも、自分の身の丈を誤り、無理に這い上がった結果、
その想像以上に眩しい世界に押し潰された。
ロウで固めた鳥の羽は、瞬く間に溶けていった。

前田の立ち位置に共感しつつも、
実は、前田・宏樹・竜汰とが形作る「三角地帯」の真ん中で、
宙に浮いた人生を送っていたことを教えてくれた「桐島」。
その解釈ができた途端、この映画は自分にとって他人事じゃなくなった。

そして、きっとどんな人にとっても、他人ごとじゃないだろう。
人それぞれ、イタイ思い出や、知られたくない過去の1つや2つ、
必ず有るもの。
桐島は、その思い出を、多様な登場人物を通じて、
巧みに見つめ直させてくれる、
本当に素敵な映画だ。

そう、「桐島」の登場人物は、
みんなが自分の中にひっそりと隠し持つトラウマの幻影なんだよ!!

ΩΩΩ_Ω<な、なんだってー!?



2012年9月12日水曜日

「桐島、部活やめるってよ」と「エレファント」と「明日、君がいない」


「戦おう、僕達はこの世界で生きていかなければならないのだから。」

「桐島、部活やめるってよ」において映画部が製作した自主映画「生徒会・オブ・ザ・デッド」に出てくるセリフだ。
”この世界”とは、見えない階層構造で分断された学校生活であり、
引いては、人間社会全体を指す。




・・・世間を賑わす「桐島、部活やめるってよ」についての議論。
事前情報では、黒澤明の「羅生門」のような展開である!との話があったけども、微妙に違う。既にかなりの人が言及している通り、どちらかと言えば「エレファント」や、「明日、君がいない」の影響を受けているのがわかる。



>「エレファント」 allcinemaの作品紹介
”1999年に起きた米コロラド州コロンバイン高校の銃乱射事件をモチーフに、「グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち」のガス・ヴァン・サント監督が、事件が勃発するまでの高校生たちの一日を淡々と描いた青春ドラマ。なお、本作は2003年カンヌ国際映画祭でパルム・ドールと監督賞のW受賞という史上初の快挙を果たした。”




>「明日、君がいない」 allcinemaの作品紹介
”10代の若者が抱える深い悩みをリアルかつ切実に描き出しカンヌで話題を集めた衝撃作。これがデビューのムラーリ・K・タルリ監督は、友人を自殺で失った半年後、自らも人生に絶望して自殺の道を選ぶが、幸いにも一命を取り留めたのをきっかけに、弱冠19歳で本作の製作に取り組み、2年の歳月をかけて完成させたという。それぞれに悩みを抱えたごく普通の6人の高校生に焦点を当て、そのうちの1人が午後2時37分に自殺するという事実を前提に、彼らの1日をそれぞれの視点から描き出していく。”




この2作、そして「桐島、部活やめるってよ」は、全てハイスクールが舞台の作品で、「同じ時間・シチュエーションを、その場にいた登場人物それぞれの視点で何度も描く」という手法を使っている。この手法の先駆者は、すでに過去にも何作かあったんじゃないかとは思うけど、(実際、ベースにある過去の映画があると監督も言っているし、パルプ・フィクションも同型。)まぁ類似点の多さからして、まず「エレファント」があり、それに追従したのが「明日、君がいない」と「桐島、部活やめるってよ」かな。いずれも、クラシック・ミュージックがスパイスになってるし。


エレファントのガス・ヴァン・サント監督のインタビューによると、「エレファント」は殆どを俳優のアドリブで演じさせ、台本からのセリフは最低限としたらしい。これによって、特定の誰かに感情移入することのない、すなわち悪役のいないストーリーの実現を試みたのだとか。かなり実験的ではあるものの、ごく平凡な日常をドキュメンタリー的な雰囲気で描くことが出来ていたと思うので、これは大成功でしょう。

で、その数年後に発表されたのが、「明日、君がいない」という作品。
この作品は、エレファントとは逆で、登場人物達へ各人の主観を植え付け、表面・内面の両側から計画的にドラマを仕立てたことで、学生の誰もが持つ「人に言えない悩み」に苦悩を際立たせ、鑑賞者達を積極的にグイグイ感情移入させる事が目的だった。
「明日、君がいない」のオチは本当に辛い。全員に感情移入してしまうから、軋轢とすれ違いばかりの学生生活、そしてその内部のヒエラルキー構造に絶望する。娯楽性とメッセージ性を両立させた傑作だと思っている。



・・・で、今回の「桐島、部活やめるってよ」は、これら2作、特に「明日、君がいない」を日本の高校の雰囲気を下地にリメイクしているような感覚に近い。日本の高校ならではの”あるあるネタ”がふんだんに盛り込まれていて、誰が見ても懐かしく、面白い(辛い?)と思える内容だ。
そしてラストでは、「エレファント」や「明日、君がいない」以上に興奮を覚えてしまう。それは、過去2作には無い”善のカタルシス”が放出されているからだ。学校内ヒエラルキー構造に対する問題提起をしつつ、それに対する解答を示している。





そのキーパーソンになっているのが、映画部部長の前田(映画ガチオタ)だ。

詳細はまた別途まとめたいけども、
原作の小説は、各章ごとに別の学生を主人公を設定するオムニバス形式をとっている。しかし監督、脚本ではそのシステムを一度破壊し、前記の通り「同じ時間・シチュエーションを、その場にいた登場人物それぞれの視点で何度も描く」形式を取った。だから「桐島」の批評において「登場人物それぞれの視点が多様で、解釈や味方も多様」なんて語られ方をしている人がちらちら見られる。

でもよく見ると、明らかに前田の存在を話の中心に置いている。それはオチからしても明らかだ。
実はこの映画の”真の視点”とは、前田のいる学校内ヒエラルキーの最下層から、上層にいるジョック共を見上げるところ・・・だと思う。

だから、この作品を愛することができるかどうかは、前田というキャラクターにどれだけ感情移入ができるか、にかかっている。すなわち、ヒエラルキーの最下層にいる人間の立場を、自分のことのように理解できるかどうか、もっと直接的に言えば、最下層を経験したオタクほど、この作品を愛することができるって事。


つづく。


2012年9月5日水曜日

実写版「るろうに剣心」に見る”左之助不要論”


誰もが期待していなかった、実写版るろうに剣心。予想外の面白さに歓喜した人が多いようで、原作ファンとしては嬉しいラプライズだったよ。全てが完璧の大傑作とは言わないにしても、十分楽しめる出来栄えなので、まだ見ていない人がいたら、是非オススメしたい。

この作品を観て、原作に対する新たな知見を得たと感じた部分がある。それが主題に書いた「左之助不要論」

映画を観て「左之助の役どころが中途半端でよく分からない」という不満を感じたんだよね。つまり、剣心と一緒に戦っているという事のみしかストーリー上のカラミが描かれないので、お話の異物・脇役のように見えるってこと。

相楽左之助といえば、小学生の誰しもがマネした憧れの技「フタエノキワミ、アッー」の使い手。ファンも多いし、幕末の志士達と互角に戦う姿がとてもカッコイイ。そんな左之助をイラナイ子みたいに扱うなんて、実写版のシナリオはヒドイ!・・・と言いたくなるけど、じゃあ原作で彼は本当に必要な子だったか・・・? 

原作るろうに剣心の根底に流れるテーマは、多分こんなイメージだと思う。

第一部 鵜堂刃衛、武田観柳&御庭番衆、雷十太 >正義に生きる元人斬りの活劇。
第二部 志々雄真実 >人を守る新たな人生への目覚め、生への渇望。
第三部 雪代縁 >人斬りとしての人生の贖罪と決別。

左之助は、赤報隊の悲劇を通して幕末・明治の混乱を訴えた、メッセージ性の強いキャラではある。でもそれが描かれて以降、彼は単なる戦力ぐらいにしかなってないんじゃないの?

神谷薫は、剣心の今を支える重要な役。明神弥彦は、明治という新たな時代を誇り高く生き抜こうとする次世代への希望を体現する役。高荷恵は、薫の葛藤を支え、励ます役。斎藤一は、単にライバルというだけでなく、幕末の混乱期の哲学を持ち、剣心の過去の足かせとなる象徴的な役。

さ、左之助は・・・?

赤報隊の話は、第一部に描かれる単発エピソードとして価値を持つけど、その後の展開にワザワザ脚を突っ込まなくても・・・いや、脚を突っ込まない方がいいんだよね。

バカなことを言うな・・・って? いやいや、それを四乃森蒼紫が証明しているんだよ。実写版では、原作の単発エピソードで描かれていた四乃森蒼紫の存在がゴッソリ削ぎ落とされてたことによって、シナリオの発散が最小限に抑えられたんだよ。おかげで、鵜堂刃衛のクライマックスを通じて、「人斬りの過去と不殺(殺さず)を誓った現在との葛藤」という一貫したテーマを、ブレずに根底に据えることができた。四乃森蒼紫は不殺と関係無いからね。・・・そしてそれは、同じく単発エピソード向けのキャラである左之助も同じなんだ、ホントに。

こう考えると、左之助が映画の中で浮いてしまう原因は、映画ではなく、そもそも原作側にあると思うわけ。この点はを映画で整合をとらせるな、左之助の存在をばっさりカットするのが一番手っ取り早いはずだけど、キャラはカッコイイし、ファンも多いからね、消す選択肢は無かっただろうね。 

 せっかくなので、次回作で、「フタエノキワミ、アッー」の実写化に取り組んでもらいたい。青木崇高自身はハマッてたしね。

そんな感想だった。