2012年4月17日火曜日

アプローチ <泥酔投稿>

ここに一枚の紙があるとする。

この紙を、右から左に向かって幅方向2/3までビリビリ破る。定規を使わず、フリーハンドで。
すると、破れた線は蛇行して、多分上か下に偏る場合が多い。

では今度は、左から右に幅方向2/3までビリビリ破る。定規を使わず、フリーハンドで。
すると、破れた線は蛇行する。上か下かに偏る。

このとき、右からの敗れ目が上に蛇行したと過程する。それに対し、左からの破れ目は、上に行くときもあれば、下に行くときもある。
左からの破れ目が上に行ったなら、右からの破れ目に到達して、上端と下端の2つに紙が破断する。
逆に下に行ったなら、右からの敗れ目には到達せず、破断しない。
縦方向から見れば、紙の幅の中心1/3で、右からと左からの破れ目が重複している箇所が発生する。

物事を思考するにあたり、目的をどう定めるべきか、というアプローチと、なぜそれをするのか、というアプローチは、スタートが対極地点のものであり、かつ論理の進行方向が全く逆の方向なんだと思う。
だから、目的は何か(What?)の論理構築と、なぜ(Why?)の論理構築とが、歩み寄るんだけども、必ず同じ論理ルートであるとは言えない。言い換えると、論理構築のルートが交わるとは限らないと思う。

よって、着想のスタート地点こそ、発想・個性の形成を担う大きな別れ目になり得るのかなと。
では、WhatかWhyか、どちらを出発点とすべきか。
自分はWhy派だ。

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