2012年3月31日土曜日

ドキュメンタリー映画「いのちの食べかた」


自分は、ドキュメンタリー映画を楽しむのは結構苦手だ。
ウォール街の裏を暴いたインサイド・ジョブは楽しめたけども、華氏911とか、スーパーサイズ・ミーなんかは、なかなか話に入り込むことが出来なかった。

でもこの「いのちの食べかた」は違った。
自分が映画館で見たドキュメンタリーの中でも一番衝撃を受けた。



概要 −allcinemaより抜粋−
"オーストリアのドキュメンタリー作家、ニコラウス・ゲイハルター監督が、我々が普段なにげなく口にしている食物が、実際にどのような過程を経て食卓に届くのかを丹念に取材・撮影した食育ドキュメンタリー。世界中の食糧需要を満たすため、野菜や果物ばかりでなく、家畜や魚でさえ大規模な機械化によって効率的に生産・管理されている現状を踏まえつつ、さまざまな食物の生産現場に入り込み、業界の不文律により撮影が許されることはほとんど無いという屠畜シーンを含め、1つのいのちが人間の食物へと姿を変えていく過程を、詳しい説明やナレーションを排し、ただありのままに映し出していく。"


 牛の解体工場。牛がコンベアによって流れてくると、作業員は牛に電気ショックを与え、あっという間に屠殺する。そして手際よくフックに引っ掛けたり、皮を向いたり、頭や手足を切り落としたり・・・。まるでクルマの生産ラインのような神業だ。何が起こっているのか分からないくらい素早い工程ばかり。これはショックだった。魚なんて、自動ロボットナイフが腹部へ切込みを入れ、内臓をバキュームで自動吸引していくんだ。なんという高効率。命ある存在なのに。頭がおかしくなりそうだったのを、今でも覚えてる。

 でもその様子を「残酷だ」と否定することがどうしてもできない。
 見た当時も、今も。

 なぜなら、例えば今日は、自分は魚のフライを食べたから。
そして先週はマクドナルドのハンバーガーを食べたから。
すなわちその「残酷さの恩恵」を日々受けているという実感が有るからだ。

 この映画を見て、「生きた牛とハンバーガー」が同じ物体であることを初めて本気で認識できた。僕ら人間は、「牛肉」という食材ではなく「牛を殺して得た、牛の体の肉」を食べているんだ。

 とはいえこの映画には、それを「命を軽んじた工程」だと批判するような描写は無い。屠殺を極端に強調することもなく、ただ淡々と、その「効率化された食材生産」の映像を映し続けているだけだ。
 なぜか。
 それは多分、どうにもならないからだ。
 増え続けた人口を、社会を、経済を維持し続けるために、この「超効率化された食材生産」を、やめるわけにはいかないから。我々人間は、既に社会と一体化した生物なので、こうでもしないと社会的生活どころか、個体生命を維持することもできないからだ。スーパーで赤身の刺身を買ったりレストランでステーキを注文できても、魚や牛を捕獲・解体することはできないもの。だから、もう人類は後戻りできないんだ。

 この映画は、「僕の命を支える幾万もの命」といった安易かつお涙頂戴なテーマが主じゃないと思う。それよりも、もっと広い視野で見て、「食材という名の"プロダクト"の仕組み」を可視化し、我々が多い隠してきた人間社会の土台を認識させ、それを正面から見つめた上で社会を回していこうとするの目的なんだ。

 そういう意味では、邦題の「いのちの食べかた」という名前はテーマを歪めている。英題の「OUR DAILY BREAD」の方がしっくりくると思う。

 よって映画を見たからといって、食事中に感謝をしろ、祈りを捧げろとヒステリックに強制する気にはなれない。ただ、ふとした瞬間だけでもいいから、我々の社会に隠されてしまった、動物・植物と食材の間を繋ぐミッシングリンクの事を思い、社会を違う視点で見てみるといいんじゃないかなと思わずにはいられない、そんなドキュメンタリーだった。



0 件のコメント:

コメントを投稿